○参考人(渡邉彰悟君) 渡邉です。本日は、参考人として御招請をいただきまして、感謝申し上げます。
私は、一九九二年にミャンマー人難民の問題に触れまして、そこから三十年以上にわたり難民の事件に関わってきました。今は、全国難民弁護団連絡会議の代表を務めています。今日は資料もお配りしていますが、資料五につきましては差し替えをお願いして、配付させていただいています。よろしくお願いします。
私からは、日本が難民条約締約国としての義務をいかに履行できていないのかと、その実態を明らかにしたいと思っています。
率直に申し上げて、私が三十年間入管の難民行政とお付き合いする中で、その実質的な変化を感じたことはありません。資料一の一のこの統計ですが、九〇年代は毎年一人という年も多く、異議は全く機能していない、数字の上でも明らかな難民鎖国という状態がありました。このときも、難民申請者は危険が待ち受ける母国への送還を恐れて生活をしていました。そして、今も、命をも奪われるかもしれない本国に送還されてしまうのだろうかと、そんな不安な日々の中で難民申請者は暮らしています。仮放免出頭の際には、再び収容されそのまま飛行機に乗せられるのではないかという不安で一睡もできずに出頭するという、そんな声をずっと聞いてきました。その人たちにとって最後の頼みの綱は送還停止効です。その最後の頼みの綱を切ろうとするのが今回の閣法であります。私たちはこれを受け入れることはできません。
この今のお示ししました統計一の一は、条約加入後の全体の難民認定数の統計です。ずっと日本の難民保護が低調であることが分かります。難民鎖国と呼ばれた先ほどの状況に基本的な変化はありません。二〇〇五年に難民認定、難民審査参与員制度が登場しますけれども、二〇一〇年代は一次の認定率は一%未満、不服申立ての段階でも、二〇一三年以後、一%に満たない状態です。二〇二二年は数字が確かに増えていますけれども、日本大使館関係のアフガニスタン人が多く、難民認定者の四分の三をアフガニスタン人が占めていたことが数字に影響している特殊な事情がありまして、大きな変化があったと見てはいません。
資料の一の二は、ミャンマー人保護の二〇一六年以後の統計です。日本とG7諸国の比較をしています。日本では、クーデターの前年まで完全に認定はゼロでした。ミャンマー情勢に鑑みればあり得ないことです。G7等の諸国は、同時期でも平均的に見てもアメリカで二〇%以上、そのほかではほぼ三〇%を超える認定が成っています。
二〇二一年二月のクーデター以後、日本でも二年で五十八人の認定が出ましたけれども、他国と比較しても、いかに日本の保護ができていないかが分かります。その大きな要因は、入管が所掌しているがゆえの限界ですけれども、そもそも出入国、出身国情報も理解されていないということに起因します。
二〇一六年は、NLD政権が誕生したときですけれども、軍の圧倒的な権力が維持されていました。ところが、入管は、NLD政権以前からミャンマーは民主化されたのだという認識に立って保護を止めてしまっていました。ロヒンギャはもちろん、少数民族への圧倒的で衝撃的な人権侵害の国連での報告がありながら、その情報は無視され、ミャンマー難民は二〇二一年のクーデターが起きるまで忘れ去られていたかのようでした。クーデター後の保護も十分とは言えません。緊急避難措置はあくまで一時的な保護ですが、ようやく今年になって保護された人もおり、緊急とは言えない状態が続きました。
資料一の三は、トルコ出身者の日本と他国の難民認定状況を示しています。日本はずっとゼロ行進です。G7等の各国では高い認定率での保護が実現されています。二〇一六年以後で見ると、フランスの二五%が最低ラインでありまして、カナダは七二%の認定率となっています。この二つの国の受入れ状況だけを見ても、いかに入管が難民を保護できていないかが分かります。
この点に関連して、最近の複数回申請者の実態についても御説明します。
資料の三を見ていただきたいんですけれども、資料の三は、複数回申請者の二〇二〇年から二〇二二年の数です。二〇二一年と二〇二二年は千二百人を超えました。ただ、この申請者の内訳を見ると、やはりトルコ、ミャンマーの占める割合の高いことが分かります。二一年は五七%、二二年は三〇%です。これは、複数回申請者の中に保護を必要としている人たちがいること、この人たちを適正に保護できていないことを示しています。資料一の三の、先ほどのトルコの他国との状況を見てください。これだけ認定されていれば、再度の難民申請をする必要はないわけです。複数回申請者が増加し割合が増えているのは、濫用でも何でもなく、ただただ帰国することによる迫害のおそれを回避する必要がある申請者が存在するということです。
難民審査参与員制度についても述べたいと思います。ここでも二〇一三年以後、毎年九九%以上の不認定率となっています。その機能不全ぶりは明らかです。二〇一三年は、法務大臣が参与員の認定意見を覆して逆転不認定とした判断が多く示された年でもあります。二〇一三年から二〇一五年の三年間で二十九件中十三件、四割ものケースで難民審査参与員の認定判断を覆されたことがありました。
参与員問題を理解する上で、資料二の一の最近の難民勝訴判決を十例示しました。済みません、これ、表題がなくて恐縮なんですけれども、最近の判決の十選です。いずれも、一次はもちろん、参与員も不認定とした案件が裁判所によって間違っていると判断されています。今年に入ってからも三件の勝訴判決が出ています。特に、二番目のウガンダの大阪地裁判決、LGBTケースについて御説明します。
ここでは、LGBTケースについて適切な判断がされていなかったということが分かります。しかも、このケースは参与員側の判断で口頭意見陳述、つまり対面の聞き取りをしない、実施しないで不認定にしています。実施しなかった理由が資料の二の二にあります。口頭意見陳述不実施通知書です。ここには、申立人の主張に係る事実が真実であっても、何らの難民となる事由を包含していないという驚愕の理由が示されています。難民性の判断を参与員が専門的にできていなかったということが分かります。
参与員の判断、発言として、難民がほとんどいないということが述べられ、それが閣法の前提とされていますが、絶対にそんなことはありません。実際に、ロヒンギャやカチン等の少数民族のミャンマーの人たち、トルコのクルドの人たち、そして様々な、アフリカ、中東の国々で迫害を抱えて逃れてきている人たちが私たちの目の前にいます。その人たちの存在が見えていないということです。
午前中の質疑の中で、参与員の執務状況について明らかにされたようですけれども、平均すると一日四十件というような数字が出たというふうに聞いています。これは、私たちの感覚からはあり得ない。実質的な不服審査がされていないということを示しているのではないでしょうか。
また、入管は、単に申請内容を正確に受け止められていないだけではなく、難民認定機関としてあるまじき本国での調査活動をしました。資料の四にそれを示しました。
当然ですが、申請者は自分たちの申請内容が本国の当局に伝えられるとは思っていません。そんなことがされるのであれば申請はしません。申請内容が本国当局に伝われば、迫害のリスクが一層強くなります。入管は、トルコ・クルド申請者の個人情報をトルコ当局に開示して、申請内容の調査をしてしまいました。
四の九は、UNHCRの声明です。このような調査活動に対して、難民条約締約国は出身国当局といかなる情報の共有もしてはならない、出身国にその国民が庇護申請をした事実を通知することは控えなければいけないという注意を喚起しました。
ところが、入管は、平成二十四年五月付けの難民審査資料トルコ編の中に係る調査の内容をそのまま残し、二〇二〇年に行われた訴訟でも証拠としてこれを提出しています。禁じ手を打ったことへの反省もなければ、自らの調査によって後発的なリスクを生じさせてしまった人たちへの保護も実施しないままでいます。この人たちの中に複数申請者も含まれています。資料四の中に、四の七にそれを示しています。
このような調査を入管が実施したという事実は、入管が難民調査の任にふさわしくないことを端的に示しています。出入国管理という姿勢が前面に出てしまうというだけではなく、申請者が訴えている迫害の理由となる事情を本国の迫害主体に開示し、更なる迫害のおそれを発生させた機関のどこに難民認定機関とふさわしいものがあるのでしょうか。
資料八を御覧ください。
入管は、チャーター便を使って難民申請者を送還し、その際に、現行法にある送還停止効を免れるために、難民不認定を通知する日と送還執行の日を同じ日になるように調整しました。そして、これについて損害賠償請求が訴えられて、裁判所は、難民不認定処分に対する異議申立て棄却決定の告知を送還の直前まで遅らせ、同告知後は事実上第三者と連絡することを認めず強制送還をしたことが裁判を受ける権利を奪っていると、違憲であるという判断を下しました。
送還停止効がある現状においてすら、入管はこのように脱法的に憲法に反する行動を取っていました。難民申請者の人たちは、難民の結論を告知される機会に収容され、送還されることが怖いと口々に語っています。このチャーター便事件のように、実際に告知と同時に拘束され、空港に連れていかれ、送還された事例を知っているからです。
さらに、上陸時において保護を希望する者に対する取扱いについての大きな問題があります。
入管は、真の難民は空港で申請する、あるいは上陸後直ちに申請するものだと裁判などでも主張しています。しかし、実際には、空港での一時庇護上陸許可申請も含めた庇護申請の入管による受付数はこの数年極端に減っています。既に紹介したウガンダ・ケースも、入管から上陸不適合とされてすぐに難民申請をしましたが、退去強制の手続が始まり収容され、一次不認定と同時に退去強制令書が出ています。このような、上陸時に庇護申請者を拒絶する態度が空港での申請を減少させています。入管は適正な難民認定実務の履行を口にしますけれども、具体的な行動はそのうたい文句に反しています。
以上述べてきたような多くの問題を内在的に抱える入管の下で、閣法では、三回目の申請の際に難民認定などを行うべき相当の理由がある資料を提出した者は送還停止効は解除されないとしています。申請者を何としても送還したいと考えている入管が相当の理由を的確に判断できるとは思えません。実際に、どんなに出身国情勢が変わっても、新たな証拠を出しても、前の不認定処分のとおりとしか再申請の不許可理由に書かれないこともあります。
阿部参考人が述べておりましたとおり、難民認定は事実の確認行為です。裁量判断でも、政治判断でも、もちろん妥当性の判断でもありません。入管も含め、その点に争いはないはずです。当然、判断過程の透明性も要求されます。
ところが、実際には、この難民認定行為を誰がしているのか、現状全く分かりません。そこには透明性はないと思います。
一昨年の入管法改正法案の審議において、元法務政務官であった方が、入管から上がってきた認定意見を客観的証拠がないから覆したと述べておられました。これは、一昨年の法案審議のときの法務委員会の議事録を資料三の九ページ目に出ています。これは一体どういうことだったのでしょうか。
命からがら本国から逃れてくる申請者は客観的証拠を持っていません。その前提の中で的確な難民認定をするということが難民法の世界で求められています。これが難民法の最も基本的な認識であることは当然ですけれども、より根本的に制度的な問題として指摘できるのは、難民認定の判断が申請者にとって見える形で運用されることがなく、透明性を欠いているあかしでもあるということです。
現行制度の下で難民調査官には判断権限がありません。結局、難民の最終的な決定が入管庁の霞が関の中で決まっているという構図があります。間接審理、書面審理であって、申請者にとって釈明する機会も与えられていないことになります。研修などによってどれほど調査官のすばらしい育成がされようとも、研修を受けていない誰か、入管庁本庁や法務省の幹部の一存で決定されるシステムが変わらない限り、難民の認定等を適正に行う、保護すべき人を保護することの実現は不可能です。
独立した認定機関の創設することのないままに、つまり適正な難民認定実務の確立のないままに送還停止効を外すという閣法は受け入れられませんし、今の難民申請者たちにとっては、それは恐怖でしかありません。今、日本に求められるのは、難民を本国に送還させる恐怖から的確に解放し、難民が日本で精神的、物理的抑圧を受けないシステムを構築することです。
そのために今すべきことは、送還停止効の解除ではなく、難民の最後のとりでとなるための制度の構築です。独立した認定機関こそが最後のとりでにふさわしく、その創設が今求められています。
私たちは、日本にとって、それが難民条約の前文にある難民問題の社会的及び人道的性格を認識して、この問題が国家間の緊張の原因となることを防止するため可能なすべての措置そのものだと確信しています。
私は、ここでの審議が、今、日本で保護を求めている全ての難民申請者にとって有意義なものとなることを心から願っています。
ありがとうございました。
○委員長(杉久武君) ありがとうございました。
次に、ラマザン参考人にお願いいたします。ラマザン参考人。
○参考人(ラマザン君) 皆さん、初めまして。ラマザンです。
今日は話す場をいただき、ありがとうございました。
話していきます。
日本に到着してすぐ、空港の中で家族で二日間部屋に閉じ込められました。ようやく出られると思ったら、父と別々にされました。母に、父はと聞いたとき、母は、後から来るよと言われました。当時、私は九歳で、一歳の弟を抱きながら泣いている母の顔を見て、何で泣いているのかが理解できませんでした。毎日毎日父のことを聞いて、ようやく教えてもらいました。今捕まっているよ、今捕まっているよと言われ、私は、何で、悪いことをしたのと聞いて、母は、何もしていないよと言われました。大人である母が理解できないのに、私が理解できるはずもないです。
それから一年近くして、父が入管の収容所から出られると聞いて、信じられませんでした。母と弟と一緒に父を迎えに行きました。父のことを見て、喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか分からなかったからです。父は痩せていて、目の周りが黒くなっていて、まるで別人のようでした。父に抱き締められると、ほっとしたのか少し照れていました。一年ぶりに父のぬくもりを感じました。
日本に移住してから一年ぐらい、一年間ぐらい国から支援をしてもらいました。それから、なぜか分からないのですが、支援が打ち切られました。私は、日本の小学校に通って日本語も話せるようになり、友達もできるようになり、それからちょっとずつ日本にも慣れてきました。
そんな頃、また父が入管に収容されました。何で何で何でと周りの人に聞いても、難民だから、仮放免だからと、理解ができませんでした。難民や仮放免は犯罪者と同じなのと周りに聞いても誰も答えてくれません。なぜなら、答えはないからです。
父が収容されたストレスで、私は学校に通っているときに、たまに意識がもうろうとしたり、弟がぜんそくを、弟がぜんそくが悪くなりました。母は、元々ストレスを抱えている上に、父がまた収容されてしまい、精神的におかしくなっていました。
でも、そんな中、入管の収容所に父の面会に行きました。そのとき、父はこう言いました。トルコに帰っても生きる道はない、私なら大丈夫だと言われました。父の顔を見て、胸が痛くて仕方がありませんでした。父の言葉を聞いて、私は家族を支えないといけないと思いました。父は必ず出てくると信じて、家族を支えました。
それから九か月ぐらいで父が出てきました。どれほどうれしかったか理解できますか。私が難民で収容所から、父が難民で収容所から出てきて喜ぶ子供たちの顔を見たことありますか。また、小さかった弟に父は何で捕まっているのって聞かれてどう説明しますか。保険証も住民票も身分証明書もなく、働く資格もない。あなた方は生きていけますか。あなた方にとって当たり前のものが私たちにはありません。どれほど大変か考えてみたことはありますか。
保険証がないと病院に行っても全て自費で払いますか。住民票がないとそこに住んでいる証明書が何もありません。身分証明書は、仮放免で、仮放免許可証を、一般の人はともかく、警察に提示しても、これは何か分かりません、ほかに身分証明書はないと聞かれます。
日本には、働かざる者食うべからずという言葉、ことわざがあります。働きたくても働けない私たちは、食べるな、飢えればいいのということでしょうか。
妹は、日本で二〇〇九年に生まれました。日本で生まれたのにもかかわらず、仮放免になりました。父と母が仮放免者だからという理由で、理解ができませんでした。例えば、親が犯罪者なら子供たちも犯罪者扱いされるのでしょうか。
私は、日本で小学校、中学校、高校と学んで卒業しました。その後、専門若しくは大学に入りたいとたくさんの学校を探し、面接やAOエントリーなどを受けているうちにこう言われました。お金はあるの、在留資格はあるの、一時許可証明書はもらえるのと聞かれ、当校はこういう事例がなかったため、ほかの学校を探してください、卒業しても働けるのって、などなどいろいろと嫌なことを言われました。逆に、私があなた方に質問しますが、もしあなた方の子供たちが同じようなことにされ、言われたらどういう気持ちで受け止めますか。
今から五、六年前に弁護士さんたちの助けがあり、日本で十年以上学んで、家族と一緒にいる、家族のために裁判を起こしてくれました。入管に愛想を尽かしていた私はやらないよと言いました。ですが、母がどうしてもやろうと言いました。でも、相手が入管だからやっても意味がないと思いながらやることにしました。
約三年前ぐらいに弁護士さんたちに呼ばれて、いい話と悪い話があると言われました。私と弟は在留資格が出る可能性が出てきました。妹と親は出ないと思うと言われました。そこで一番最初に、私と弟が最初に口にした言葉は、妹はと口にしました。なぜなら、一番もらうべきなのが妹だからです。なぜなら、日本で生まれているからです。なぜここまでまだ苦しめられるのかが分かりません。親と相談して、二人だけでもいいからもらいなさいよと言われました。納得しないまま在留資格をもらいました。
今の新しい入管法改正案に対して言いたいことがあります。
一度、自分たちの立場を置いて、私たちの立場になって考えてみてください。私の父を含め、いろんな人が何度も何度も入管に収容され、それでもかかわらず、帰れないと。また、保険証や住民票、働くことができない。家族と一緒に日本に来て、平和な暮らし、日本で生きていきたいと。ほかの道はない。
私の気持ちが分かりますか。もし出稼ぎに来ているのなら、入管の収容所に一度や二度収容されたら、普通の人だったら帰国します。なぜなら、収容期間、入管が決める無期限収容など、とても耐えれることではないからです。もし出稼ぎで来ているのなら、私は家族と日本には来ていません。なぜ分かってくれないのですか。
子供たちには何らかの資格を与えましょうという意見が出てきて、意見が出ていますが、少し遅かったのではないですか。私は日本に九歳で来て、今はもう大人になってしまいました。子供たちだけに資格を与えたら、親はどうなるのですか。帰されるのですか。子供たちは親がそばにいないと、生きていけますか。あなた方の子供は、無理やり引き離されて、あなた方と別の国で生活できますか。
なぜ子供も大人も難民の命と人生を守ろうとしてくれないのですか。帰れない理由がある人たちのことを真剣に考えようとしてくれないのですか。皆さん、最後に一度、自分の職務を置いて、一歩前に踏み出して考えてみてください。
話を聞いていただき、ありがとうございます。
今日、かつての私と同じ立場で今も苦しんでいる大勢の子供たち、若者たちのために、勇気を出してここに来ました。クルド人たちもそれ以外の人たちも、日本ではまだ守られるべき人たちが保護されていません。そして、彼らは、今度の政府案が通ったら送還されるのではないとおびえていることを知ってください。私も、家族が送還されてばらばらになるのではないかと不安で、とても怖いです。
ありがとうございました。

 

○仁比聡平君 日本共産党の仁比聡平でございます。
皆さんありがとうございます。
まず、ラマザン参考人にお尋ねをいたしますが、先ほど意見陳述の御様子拝見をしていたんですけれど、お手元の原稿、日本語の原稿ですよね。
○参考人(ラマザン君) 自分で用意した文書ですかね、はい、日本語です。
○仁比聡平君 遠目になんですけど、結構漢字、熟語交じりの原稿だし、私たちのまるで本会議での代表質問の演説のような、御自身の思いを訴えるお話だったと思いますし、こうして私たちの質問もとてもよく趣旨を受け止めて的確にお答えになっておられると思うんですけど、日本語というか、日本語とか日本社会とかいうのって、ラマザンさんにとってはどういうものですか。
○参考人(ラマザン君) 私から見てとてもしっかりしています。小さいことでも大きいことでもしっかりと取り組むという、法律ももちろんそうなんですけど、生活面とかそういったところでもしっかりしている国だと思っています。学校でも一人一人に対して、教え方や、いわゆる障害を持っている人でも、言葉が話せない人とかでも、そういった人たちに対してとても意識が高い、経済的、学ぶ場がつくられていて、日本で育ってきた自分が見た限りではとてもすてきな、とてもしっかりした国だと思っています。
○仁比聡平君 ということは、その日本の社会で家族と一緒に暮らしていきたいというのがラマザンさんの願いでしょうか。
○参考人(ラマザン君) そのために、私の親は、両親は私を日本に連れてきたと思います。
○仁比聡平君 先ほど、働かざる者食うべからずという日本のことわざをお使いになったんですけど、いつ頃この言葉を印象深く受け止めたのか、その後になるんでしょうけど、働くということ、あるいは働けないのじゃないかということ、その壁のようなものにぶつかってきたんじゃないかと思うんですけど、その働くということについて意識したのは何歳ぐらいのときで、どんなことですか。
○参考人(ラマザン君) 一番でかかったのは、やっぱり高校卒業して専門又は大学に入るときだったんですけど、そのAOエントリーとかそういったものを受けているときに、お金のことももちろんそうだったんですけど、だから、事例がないとか、卒業しても働けないよねって、じゃ、学んでいる意味はあるのみたいな、そういったところを言われたときも、そこが多分私に関しては一番でかい、すごい大きい壁で、別に働けないからって学んじゃいけないという、まあ言い方は失礼かもしれないですけど法律はないし、働けないから、じゃ、学ぶなと言ったらそれもおかしいし、事例がないからというので入れないというのも私からしたらおかしいかなという考えですね。
その専門学校、専門、大学に入るときがその働けないということを知って、そうですね、そのときに知って、疑問になっている。今は在留資格を取得したから働けるんですけど、私と違ってほかの人はその働く資格もないから、小さい頃から日本にいた子供たちは多分いまだにそれが疑問になっていると思います。
○仁比聡平君 私が国会でこの法案審議の中でお会いした、委員会室の外でお会いした非正規、仮放免中の子供たち、小学生だとか中学生たちにもお会いしましたけど、やっぱり自分の夢、例えば、看護師さんにとか、助産師さんにとか、保育士さんになりたいというそれぞれ子たちがいたり、サッカー選手あるいはバスケットボールの選手としてプロで頑張りたいという方々がいたりして、本当に日本国籍のというか、うちの子と同じですよね。そういう人たちが仮放免だから、在留資格がないから働けないというその壁にぶつかったときの思いというのは、重なるかもしれないけど、どんなふうに思われますか。
○参考人(ラマザン君) 実際に私が小学校、中学校の頃に野球をやっていて、プロ野球選手を目指していたというのが最初の目標だったんですけど、父も収容されていることに関して知識は入ってくるわけなんですけど、入管に対してとか、仮放免、難民に対しての知識が入ってくるんですけど、まあかなわないよねという考えが出てくるのが一方と、高校に入って学んできてちょうど卒業するときに、専門、大学というときに、当時通訳を、うちの国の人とかに通訳の手伝いをしていたんで、じゃ、通訳人の仕事をできたらいいなと思って英語の専門学校にAOエントリーとかそういったもので行ったんですけど、文書に書いてあるとおり、やっぱりお金を払えるのとか、働く資格、あなた働く資格ないじゃん、一時許可証明書用意できないじゃんといって、在留資格はとか、そういったことを積み重ねで言われて、もう日本人からしたらごく普通の夢を持っている、でも私たちからしたら夢はまた夢のまた夢みたいな、もう尊いもの、夢を持ってもそれをかなうのには在留資格、いわゆる仮放免と難民という立場だと夢のまた夢という感じです。
○仁比聡平君 ラマザンさんへの質問の最後になるかと思うんですけど、五、六年前に弁護士さんたちの助けがあって、在留資格というか、つまり裁判を起こしたと。そのときに、やらないと言った、最初。なぜかというと、入管に愛想を尽かしていたっておっしゃいましたよね。この入管に愛想を尽かしていたというのは、とてもいろんなことを含んでいるように思うんですけど、できたらお話しいただけますか。
○参考人(ラマザン君) 入管って、仮放免とか難民の立場であると、毎月又は二か月に一回という、入管に通う、通うんですけど、言われることはごく決まっていることで、住所は変わっていないのって、帰る気はないのとか帰ってくださいとかとか、あらゆることを聞かれるんですけど、それが積み重ねで、どんどん積み重なってきて、で、周りの人たちも同じふうにやっぱり入管に通っているわけなんですけど、言っていることがみんな同じなんですよ。
裁判とか、そういったことを起こしたとしても、結局、周りの人からの聞いた話と自分が見てきた話と、入管に通って生活しているもので、やっぱり住民票、保険証とか、そういったものがない中で、入管に対して新しい裁判を起こしても正直何の期待もできないというので、私だけじゃなくて、お父さんも、いや、いいんじゃない、やんなくてもと言うので、そんな中でやっぱり女性の方って強いなと思って、お母さんは、いや、やろうよという意識が強くて、じゃ、今回だけという、お父さんと話して、どうすると言って、じゃ、今回だけ何とか頑張ってみようかという決心で、だから、それで愛想を尽かしました。
○仁比聡平君 そうしたラマザンさんの思いも踏まえて、他の参考人の皆さんにお尋ねをしたいと思うんですけど、ちょっとまず後閑参考人に、冒頭お触れになられたウィシュマさんの事件に関して、名古屋入管が仮放免申請を却下しています。報告書によると、その理由として、仮放免を許可すればますます送還困難となると、一度仮放免を不許可にして立場を理解させ、強く帰国説得する必要ありという判断を残しているんですね、記録上。
これは私はとてもむごいことだと思うんですけど、これ、入管の現実というのはこういうことでしょうか。
○参考人(後閑厚志君) 少し、私、申し訳ございませんが、残念ながら退職した後の話なんですけれども、私がその事故というか事件を見聞きするのは、あくまでも、その、何というか、新聞とかそういったところからの程度の話になってしまいます。
ただ、要は、入管にその籍を置いた者としてその弁明させていただくとすれば、基本的には、その最初の段階できちんと退去強制手続というものが取られているというのがまず第一点あるんですね。ですので、その中できちんと、それは在留が認められるか、認められないかという判断の下に退去強制令書が発付されたという事実があると思います。そうすると、退去強制令書が発付された人に関していえば、速やかに帰国していただくというのが法の要請だと思うんです。
ただ、何らかの理由で帰国できないということもございましょうし、帰国したくもないという方もいらっしゃると思うんです。ですので、実際に送還ができない状況が続くと、仮放免が継続するということになると思います。
ただ、ただ、仮放免したとしても、最終的にはそれは中間、我々にとっては中間処分なんです。仮放免されたとしても、退去強制を受ける地位の人間であることには変わりがないということなので、なかなかその仮放免すれば解決するという問題ではないというふうに認識していますので、仮放免を不許可にしてという、そういうことなんでしょうけれども、基本的にはやっぱり、入管庁としては、その方は送還に向けて計画していたんだろうと思います。
○仁比聡平君 いや、体調が急速に悪化する方に対して強く帰国説得するというふうにおっしゃるのは、私は送還ありきだというふうに思うんですけれども。
渡邉参考人、ちょっと時間が限られてきて申し訳ないんですが、先ほども難民の認定基準に関わって、浅川参考人の委員会配付の資料を拝見すると、いわゆる個別把握論といいますか、浅川参考人の御著書、難民であるかどうかを見極める際のポイントとして、その人が個別に迫害の対象とされているかというものがあるということを重視しておられると思うんですけれども、その点について渡邉参考人はどのようにお考えでしょうか。それから、国際基準との関係でどんなふうにお考えか。
○参考人(渡邉彰悟君) ありがとうございます。
個別把握の考え方というのは、やはりこれは想像できるかと思うんですけど、当局に対して抵抗している人間がいつどのように把握されて、いつどのような迫害を受けるかというのは、誰も分からないことだと思うんですね。ですので、個別把握説はどうしても、先ほどの発言の中からも私そう思ったんですけれども、どうしても過去の経験事実、迫害、拘束されたかどうかとか、そういうことに、を重点置きやすいというふうに思います。
そうすると何が起こるかというと、膨大なその出身国情報によって、同じような状況にあるその人たちが迫害を受けるおそれがあるということについての認定ができなくなる、判断ができなくなると思うんですね。出身国情報は、まさにその人が抱えている一般的な迫害のおそれというものを評価するために必要なんですね。個別把握という考え方を取ると、もう出身国情報、全然要らなくなっちゃうんです、全て要らなくなってしまう。これがそもそも間違えだと私は思うんです。
ですので、その人の置かれている状況というものを客観的に判断する、おそれというものを判断するために出身国情報がまさに必要なのであって、それが今の日本では十分に共有されていない、十分に評価されていないということに最大の問題を感じます。
○仁比聡平君 渡邉参考人にもう一問。
そのためにも、私はインタビューというのがとても大切だと思うんですね。御本人のおっしゃることを、せんだっての小尾参考人は、専門性のあるインタビューをやらないと供述の信憑性というのは判断できないと。その口頭審理が、先ほど御紹介のあったウガンダ・ケースのように、言っていることが本当でも難民該当性はないからなんといって口頭審理そのものが外されるような現実というのには私も怒りを感じるんですが、渡邉参考人、いかがでしょうか。
○参考人(渡邉彰悟君) ありがとうございます。
ウガンダ・ケースでも、判決を読んでいると、膨大な出身国情報、要するに同性愛の人たちに対してのウガンダ国内での迫害という問題について触れています。そういったものが、インタビューの際に難民調査官は全てそれを把握していないといけないんですね。もちろん一〇〇%とは言えないかもしれませんけれども、少なくともウガンダの同性愛者が抱えている困難というものを理解した上でそのインタビューに臨まなければいけない。ミャンマーであれば、ミャンマーのカチン民族、少数民族の人が抱えている出身国情報はどんな状況があるかということを理解しながら質問に臨まなければいけないと思うんですね。それがなければ、その人の難民性というものを浮き彫りにできないと思うんです。単に何もないままで質問をして個別事情を聞いていっても、その人の危険性は浮き彫りにできないですね。そういう問題性を供述調書から私はいつも感じています。
○委員長(杉久武君) 仁比聡平君、お時間になりましたので、おまとめください。
○仁比聡平君 時間が参りました。浅川参考人、お尋ねできずに申し訳ありません。
終わります。