豪雨の梅雨が明け、来夏の参院選までいよいよ1年です。
わずか10日の闇に2度も大洪水に襲われた大分県中津市耶馬渓(やばけい)町の肉屋さんは「被害がひどく、今後どうするか考えてしまうが、東日本大震災で被災されても頑張っている人たちのことを考えると、何とか再建しなければと思う」と語られました。
野田政権の暴走、民自公の密室談合政治に怒りを燃やす幾千万の人々がいま続々と日本共産党に加わり、党は生まれ変わろうとしています。「やっぱ、火をつけるもんがおらんとつまらんな」と応援席からフィールドに立つことを決意してくれた大先輩。保守の牙城で迷いを吹っ切って「わかりました」という青年の笑顔。私は皆さんの決意に応え、噴き上がる西日本各地の要求とたたかいを代表する国会のあの質問席に必ずや戻ります。
1963年、私が生まれた1カ月後に、三池炭鉱の炭じん大爆発で458人が殺され、839人もの人々がCO(一酸化炭素)中毒に冒されました。炭鉱住宅育ちの父は八幡製鉄の仲間を募って直ちに救援に向かい、当時26歳の母は日記に「また尊い命が奪われました。あなたのお父さんは大牟田に行っています。あなたの時代にこんなことが繰り返されないように」とつづっています。
90年前、この日本に共産党が生まれたのはそうした人々の良心の結晶だと思うのです。私は大学に進んだ18歳のとき、「世界はあれこれと解釈するためではなく変えるためにある」という先輩の言葉に入党を決意し、先月で満30年になりました。どんな権力からも自由で、事実にもとづいて権利のためにたたかう弁護士を志し、憲法が光り輝く瞬間を幾度も経験してきました。しんどい時も仲間たちがいたからこそ、前を向いて進むことができました。
どの世界もそうですが、弁護士にも「いい弁護士」と「悪い弁護士」がいますね。大阪の、悪いどころか風上にもおけない橋下維新の会の台頭に、「司法試験の科目に憲法はないのか」と怒りが噴き上がり、その弱い者いじめと原発容認の正体も随分はっきりしました。私は、真正面から立ち向かい「憲法が生きる時代」を切り開きます。
ご一緒に頑張りましょう。心から呼びかけます。(しんぶん赤旗 2012年7月25日)
- 投稿タグ
- エッセイ