母は9歳のとき北京で終戦を迎えました。まだ2歳だった双子の妹の一人をおんぶして、祖父と命からがら山口県仙崎の港に引き揚げ、実家の島原への帰途は北九州も福岡も大空襲で焼け野原。諌早には長崎で被爆した方々があふれて地獄を見る思いだったといいます。
文学に合唱に多感な少女時代を過ごし、働き始めた町工場への道すがらの家に共産党の看板を見つけ、毎日「赤旗」をとりに行くようになります。まだ早朝配達のないころでした。うたごえや労働運動が高揚する時代です。
私がお腹のなかにいるころ、母は「戦争は絶対反対」と新日本婦人の会の創立に参加し、母親大会の成功のために長年頑張ってきました。よく会議について行った私や弟たちは、同じくついてきた子どもたちとはしゃぎまわってはしかられ、「ポストの数ほど保育所を」とまるで子守唄のように聞かされて育ちました。
私の下の弟は、公害ぜんそくに苦しみ、3交代の父は、新日鉄の「合理化」とたたかってわいわいやっていましたから、小学生になるころから、「お米を8合といどって」という母の言いつけで留守番をさせられたものでした。
みなさんは新日本婦人の会の「親子鳩」の旗をご存じですか。「お母さん鳩が子ども鳩をまもって平和な世界をつくるのよ」とよく語った母が、新日本婦人の会の福岡県本部会長を引退した大会で、私が共産党の候補者としてあいさつする羽目になったときはさすがに参りました。
いまも地域で元気に頑張る母親たち、新日本婦人の会のみなさんに元気をもらって、今日も頑張ります。(しんぶん赤旗 2010年5月8日)