法律生かし国民とともに
小学生のときからクラリネットを吹いていて、小中高校時代は吹奏楽部。真剣に音楽家の道も探求しました。一方で、そんな友人たちと「芸術とは何か」「差別はなぜ起こるのか」「戦争はなぜ起こるのか」と熱く議論しました。いま振り返るなら「社会を動かす仕組みをつかみたい」という強い欲求が、法学部に進学した最大の動機だったのでしょう。
入学式の当日から
私が京都大学に入学したのは1982年でしたが、なお反共暴力集団がのさばり、授業破壊や内ゲバまでやる異常な事態で、そうした暴力支配が許せずに入学式の日から学生自治会運動に飛び込むことになりました。その年の5月、民青同盟に加盟し、京都スモン訴訟の原告を訪ねたりするなか、日本共産党への入党を誘われました。
大学2回生のころ、さて進路をどうするかと考えたとき、あらためて故郷北九州の街とたたかい、そこでの労働運動や市民運動の裁判のほとんどを手がけてきた北九州第一法律事務所(所長は三浦久・日本共産党元衆院議員)が頭に浮かび、離れなくなりました。
諌山博さんの本を
弁護士は、どんな権力からも自由であり、事実にもとづいて権利のためにたたかうことを自らの職業、生きざまにできる仕事です。戦前の治安維持法に抗して、 日本共産党や小作争議、朝鮮独立運動に対する弾圧とたたかった布施辰治弁護士は「生きべくんば民衆とともに 死すべくんば民衆のために」という言葉を残し ています。かなうなら自分もそんな人生を歩みたい。4年間の学生運動から卒業するとき、私は「法律を武器にした職業革命家をめざす」と仲間たちに宣言し て、司法試験の受験生活に入りました。
ところが、これがなかなか容易ならざるたたかいで、孤独に呻吟(しんぎん)する20代の数年間が 続きました。そんなころ、母が段ボールにジャガイモやニンジンと一緒に詰めて送ってくれたのが、故諌山博弁護士(日本共産党元衆院・参院議員)の著作集で した。私はなんべんも、隅々まで、繰り返し繰り返し、ときには眠れない夜に胸を熱くしながら、むさぼるように吸収しました。
「労働者とともに。被害者とともに。憲法を暮らしのなかに」と弁護士を志した私が、国政を変える直接の役割を担うことになりました。私は、どうしても先輩方の不屈の志を受け継ぎ、大きく実らせたいのです。