その器かどうかは別として、安倍総理は「最高責任者は私だ」と、9条をなきものにせんとする憲法破壊のゴングを鳴らした。「憲法改正」では国民多数のハードルに阻まれるから、おともだち法制懇のお囃子(はやし)で、おともだち内閣だけで「戦争をする国」に変えてしまおうというのである。それこそ一番やってはならない暴走だ、という立憲主義と国民の警鐘には正面から居直って。
5月3日の憲法記念日をめぐって全国でとりくまれ、各地で史上最高の成功をおさめた憲法集会に、私は心底励まされた。
昨秋、原発再稼働反対で官邸前に足を運ぶようになったある女性は、いてもたってもおれず秘密保護法廃案の国会包囲に参加したが、内心「どれほどの意味があるのか」と無力感にさいなまれたという。たまたま議員会館の私の部屋で、シュプレヒコールが院内にどれだけ響き渡っているか、山と積まれた激励・抗議ファクスがどれだけ議員を動かすか、を知って「声をあげることは小さくてもやっぱり意味があるんですね」と素晴らしい笑顔で語ってくれた。
ある若者は「派遣でお金がないからアパートに電話もファクスもないんです。それで工場の昼休みにコンビニまで走っていってファクス送ったんですが、少しでも力になったと聞いてうれしい」と語ってくれた。
ともすれば孤立感や無力感に襲われがちな多くの人々に、連帯と民主主義の力を呼び起こすのは運動の力である。いまほど憲法運動や平和運動の力が求められている時代はない。
安倍総理がつくった「解釈改憲」というリングに幻惑され、はやくも、まるで自民党と公明党の与党協議や翼賛勢力の再編で憲法の運命が決まるかのような報道が幅をきかせはじめている。とうとう禁じ手にふみだした安倍政権に速攻でカウンターパンチをくらわせよう。「憲法は国民のもの」であることを国民的運動の力で示そう。(しんぶん赤旗 2014年5月21日)