反戦集会 父の肩車で
夏の参院選で必勝めざす全国5人の比例代表候補の一人で、中国・四国、九州・沖縄で活動する仁比そうへい候補(49)に生い立ちや青年時代のこと、弁護士、参院議員としての活動などをききました。
私は1963年10月の生まれですが、その1カ月後、三井三池炭鉱三川鉱(福岡県大牟田市)の炭じん爆発がありました。458人が殺され、839人がCO(一酸化炭素)中毒にされたのです。八幡製鉄(現・新日鉄住金八幡製鉄所、北九州市)の工場労働者で、炭鉱住宅育ちだった父は製鉄の仲間を引き連れて救援に入りました。当時26歳の母は、そのときの不安と資本への怒りを、日記に克明に残しています。
「また尊い命が奪われました。あなたのお父さんは大牟田に行っています。あなたの時代にこんなことが繰り返されないように」
小さな拳振り上げ
祖父は三池炭鉱労働者でした。父は終戦を8歳で迎え、三池炭鉱の炭住で育ち、有明海の干潟でアサリやアゲマキをブリキ缶いっぱいに採って教科書代を稼ぎ、 三池闘争前夜の高校生時代、若き荒木栄さん(労働者作曲家)のうたごえ行動隊に参加したといいます。八幡製鉄に入社後、小沢和秋さん(日本共産党元衆院議 員)を兄貴分に、労働青年部などの活動をし、三池闘争の現地オルグに通いつめたようです。
母も9歳で終戦を迎え、北京から命からがら引 き揚げました。実家の島原に帰る途中、諫早には長崎の被爆者たちがあふれて地獄のようだったそうです。私がおなかの中にいるころ北九州市戸畑区で新日本婦 人の会創立に参如し、「ポストの数ほど保育所を」と母親運動に駆け回っていました。
70年安保・沖縄返還・ベトナム戦争反対の集会には、父の肩車で参加しました。子どもながら「ベトナム戦争反対」「爆撃機B52の出撃はやめろ」と小さな挙を振り上げました。
小学生にあがるころ、新日鉄は過剰投資なのに「鉄は国家的事業」だと千葉県君津市に新しい工場をつくり、八幡の多数の労働者への強制転勤命令を強行しまし た。父は、強制転勤を拒否して裁判に立ち上がった労働者を「励ます会」の事務局長として頑張っていましたから、小中学生のころ私の家には、3交代勤務の製 鉄労働者が次々集まっては会議やビラ作り、手分けしての社宅訪問などわいわいやっていました。一杯飲んでは手拍子で歌われる「がんばろう」に、子どもなが ら胸を躍らせたものです。
公害続発の時代に
工場がまきちらすばいじんと亜硫酸ガスで弟は公害ぜんそくに苦しみ、水俣病や薬害スモン、カネミ油症などの食品公害も続発した時代でした。
「こんな大企業の横暴は許せない」「一握りの資本家がみんなを苦しめるのは間違っている」―そんな思いが、のちに日本共産党に入党し、弁護士を志した私の原点にあります。(しんぶん赤旗 2013年4月23日掲載)