憲法が光り輝く瞬間

 1994年、30歳で弁護士となり、格闘の生活が始まりました。

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 初日から労働争議の交渉。「新日鉄出向無効確認事件」や、大学教員の不当解雇を撤回させ職場復帰を果たした「福原学園配転無効訴訟」を通じて、労働組合の団結の大切さ、労働契約のあるべき姿を学びました。

千件超す相談が

最初の5年間だけでも、受けたクレジット・サラ金被害の相談は1000件を超えるでしょう。昼も夜もない活動が続きました。ヤミ金業者と渡り合い、依頼者 の家族が連れ去られたとの知らせには車を飛ばして救出に駆けつけ、「手形を返せ」とサラ金の事務所に半日座り込んだこともありましたね。

 市民オンブズマン・北九州を立ち上げての、官官接待や天下り官僚の物見遊山の海外視察追及は、大きな反響を呼びました。

 99年、35歳での衆院議員選挙への立候補の要請はまさに晴天の霹靂(へきれき)でした。「器じゃありません」と固辞しましたが、「器かどうかは君が決めることじゃない。国民が決めることだ」という言葉に、政治を変えるたたかいへの挑戦を決意したのです。

 2000年衆院選以降、01年参院選、03年衆院選と連続した、小泉政権の改憲と「構造改革」政治との対決で、私は鍛えられました。

  そのころ、諫早湾干拓事業の潮受け堤防閉め切りによって決定的となった有明海異変(00年末)と漁業被害に、身を震わせて漁民を訪ね歩きました。自民・公 明政治のごまかしを見破り、保守的風土のしがらみを断ち切って「俺はこの先生たちを信じる」と「よみがえれ!有明訴訟」の提訴を決意してくれたときの感動 は忘れることができません。

法廷に拍手湧く

 私は、弁護士として、憲法が光り輝く瞬間を何度も体験してきました。その一つが、ハンセン病問題をめぐる「らい予防法違憲国賠訴訟」の熊本地裁判決(01年)の瞬間です。

  ふるさとを奪われたハンセン病療養所の入所者たちは、断種や堕胎をはじめ筆舌に尽くしがたい強制隔離政策のもとで90年余りにわたって人間らしく生きるこ とを否定され続けました。勝訴を確信していたにもかかわらず、「人生を丸ごと奪う人権侵害」と断罪する判決言い渡しの途中、弁護団席から漏れだした鳴咽 (おえつ)が法廷中に広がり、終わった瞬間、わーつと拍手が湧き起こりました。裁判長はそれを制止することもなく退廷しようとしたのです。

 その背中に、傍聴席の最前列に座っていた原告の一人が立ち上がって叫びました。「裁判長ありがとう。これで俺たちは人間に戻れた。これで胸を張って生きていける。裁判長ありがとう」。憲法を生かすたたかいの力が輝いた瞬間でした。

 私が国会で見聞してきた改憲派の幾多の議論に共通するのは、こうした権利のためのたたかいと憲法に対する感動、憲法体験の欠如ではないかと思います。それは歴史の真実に学ぼうとしない政治姿勢と表裏一体のものです。

 だからこそ、「憲法が生きる政治」をきりひらく憲法論戦の根底に、私はその感動そのものを据えたいと思うのです。
(しんぶん赤旗 2013年4月25日掲載)